暫く足がその場から動かなかった。
俯いた顔は上がらない。
だけど、俺は立ち止まっていてはいけない。
それじゃ何の為に俺が別れを告げたのか分からない。
前へ進む。
その気持ちが、俺の足を動かした。
月凪 19
「エド」
司令部を出ようと、長い廊下を歩いていた時、後ろから呼ぶ声がした。
「…少尉、」
振り向くと、数メートル後ろにハボックが立っていた。
「……」
「……」
互いに、言葉を発さない。
いや、発せられない。
ハボックは思わず声をかけてしまったのだが、その後のことを一切考えていなかった。
ただ、呼び止めなければならなかった気がして。
後姿が、何か決意に満ちたものになっていたから。
それでも、言葉が浮かんでこない。
先日あんなに酷いことをしてしまったことを、ハボックもエドも、忘れられるわけがないのだ。
いや、俺よりもエドのほうだ。
ハボックは、感情任せに抱こうとしたことを今更ながらに後悔していた。
あんな奴の為に泣くのを見ていたくなかったから。
悲しむ顔を見たくなかったから。
それがあの行為の理由になるわけがない。
気遣う気持ちも、感情を出しすぎてしまったら狂気に変わる。
それは誰よりも俺自身が分かっていなければならなかったことなのに。
結果的に、支えになりたいと思ったことが裏目に出て、嫌われてもおかしくない。
それなのに、まだエドに対する感情にすがりたいと思ってしまう。
お前はそれを。
また笑顔を見たいという思いを。
許して、くれるか?
「…行く、のか」
意を決してハボックは言葉を紡いだ。
たどたどしいものだったが、ようやくでも出せた一言に、内心安堵した。
「…あぁ、」
今日で中尉と交わした"約束"の2週間が終わることを、ハボックも知っているのだとエドは悟り、短く返事をする。
「…それで、いいのか?」
自分でも驚くような言葉が出た。
これじゃあまるで、二人の仲が壊れるのを見たくないみたいじゃねェか。
そして、気付いた。
俺にはずっと、この二人に入る余地なんてなかったことを。
エドから、あの人に対する思いを消すことも。
そんな当たり前で、とても難しいことに、ようやく。
不思議と、心が軽くなる。
俺は、あの人を思い続けるエドが好きだったんだと。
「…本当に、それで…っ」
そう思うと、エドがあの人から離れて行って欲しくないという感情が芽生える。
不思議だったが、何故だろう。
今まで抱いた感情以上に。
とても、切ない。
「少、尉…」
ハボックの悲痛な声に、エドは少し驚いた。
その声には一昨日エドを抱こうとした覇気すら感じられない、何故か切なさがひしひしと伝わる声だった。
そんな風に呼び止められて、引き止められたら一昨日のことを忘れてしまいそうになる。
ここに、留まっていても良いのかと、錯覚しそうになる。
エドはその思いを押し込めて。
「…いいんだ、」
いいんだよ。
そう言ったエドの表情は穏やかで、どこか。
悲しそうだった。
「エド――――、」
何か言うつもりもなかったが、その顔を見ていられなくて、ただ名前を呼ぶと。
「…少尉の気持ち…」
エドは体を完全に向き合わせる形をとって。
「嬉しかったよ」
ありがとう。
と、目を伏せた。
「エド…」
きっとそれは心からの言葉。
それだけで、俺も嬉しかった。
長ったらしい良い訳染みた言葉なんて要らなかった。
表情と、短い言葉だけで十分。
そして言葉にしなくても、声にしなくても。
伝わるものも、ある。
「…お前が決めたことだ。俺はもう何も言わない」
今まで張り詰めていた空気を少し緩めて。
「それに、言っても聞きそうにねェしな」
「はは、まーね」
いつものような会話を交わして。
「…少尉」
「ん?」
エドは左手でズボンのポケットを探って、入っていた何かを掌の中に収めると。
「最後に、頼みがあるんだ」
ぎゅ、と名残惜しそうな表情を浮かべながら、それを握り。
「これを、」
そう言って、ハボックにそれを投げた。
ぱしん、と右手で受け取ったそれを見ると。
真っ黒で、でもそれでいて光沢を放つ石があった。
それはエドがずっとロイを想って持っていた、黒曜石だった。
「…これ…?」
問いかけるようにエドを見ると、少し眉を下げてハボックの手の中にある石に視線を向けながら。
「大佐にさ、渡しといて」
悲しそうな。
「ありがとう、そして―――――さよなら、って…」
困ったような笑顔と共に。
そしてエドは。
じゃあ、と一言言ってきびすを返し。
遠ざかって行った。
最後に残されたあの笑顔は俺に向けられたものじゃない。
だがそれで良かった。
俺のことなんてもう気にしなくていいんだからな。
それはお互い思ったことだろうが、口にはしなかった。
それが今までの関係に戻れたということだから。
何事もなかったあの日に。
そして明日からまた、いつもの日常に戻る。
しかし。
きっと、エドはもうここには――――。
「…、」
俺とエドのことはもうこれでいい。
だが大佐とエドの関係を終わらせるわけにはいかない。
俺のためにも、中尉のためにも。
何より大佐と、エドのためにも。
決意を決めて、ハボックは一歩踏み出した。
「兄さん」
「アル、」
司令部の建物を出ると直ぐに、弟が立っていた。
アルとは宿で落ち合うはずだったので、自分のトランクを持ったアルが居たことに少し驚いた。
「どうしたんだよ、宿で待ってて良かったのに」
駆け寄って見上げて問うが、アルは暫く言葉を発さなかった。
「?アル?」
不思議がってもう一度名を呼ぶと。
「…本当に、良かったの?これで…」
少し、沈んだ声。
「本当に…」
「アル」
自分のことではないのに。
お前が気に病むことはないのに。
少尉だって。
「…同じこと言うんだな、少尉と」
「え…」
少し視線をずらしていたアルが、エドのほうを向くと。
てっきり沈んでばかりいると思っていたのだが、その顔は何故か満ち足りた顔をしていて。
「…なぁ、俺は生きてるだろ?」
「え?」
唐突で脈絡ないことを問われて、アルは疑問符をつけて返すしかない。
その前に自分の問いかけは何処にいってしまったんだろうかと思うが。
「アルも生きてるよな?」
「え、あ、まぁ…うん」
間髪入れずに聞いてくる兄の問いに答えるしかない。
「そういうことなんだよ」
「え?え??」
が、いきなり自己完結されてもこちらにはさっぱりで。
「どういうこと??」
「だから、生きてるんだろ、皆」
俺もアルも少尉も中尉も、大佐も。
「あ…」
「…俺は最初、記憶が戻ればって願ったけど…」
そんな大きな願い事じゃあ叶うわけがないんだ。
それに気付いて願いを小さくしていったって、もう遅い。
「…本当の願いは、大佐が俺を庇ってくれた時にもうあったはずなのにな…」
どうして気付かなかったんだろう。
それはずっと初めからあったはずなのに。
大佐が目を覚ました時に、それを一番初めに思わなきゃいけなかったのに。
それを言わなきゃいけなかったのに。
「当たり前すぎて、分かんなかったんだ…」
ただ。
生きていてほしいって。
生きててよかったって。
記憶が戻ることよりも。
傍に居ることよりも。
何より、生きていてくれればそれでいいんだって。
「やっと、気付いたんだ」
「兄さん…」
淡々と話すエドに、アルはただ呼ぶことしか出来なかった。
もっと何か言いたいことがあったのに。
でも、兄さんがそれで良いというのなら。
僕は何も言わないよ。
僕だって兄さんが生きていたらそれでいいから。
僕には、それが全てだから。
「だから、いいんだ」
「…うん」
嬉しそうで、何処か悲しそうな表情だったけど。
兄さんが笑ってくれるなら。
それ以上は望まない。
兄さんが、大佐に対して生きているだけでいいと願ったように。
「じゃ、行くか」
「うん」
ゴツン、とエドの右手の拳とアルの左手の拳を合わせて。
二人は歩き出した。
誰にも、行き先を告げずに。
本当は、アルにも言えなかった願いがあった。
些細なことだけど。
たった一度でよかった。
大佐に…。
そこまで出てきた女々しい言葉を、また飲み込んだ。
もう俺には必要のないことだから。
きっともう、一生叶うことのないことだから。
next→
04/10/11
最後の件とハボックの行動に関しては次で明らかに。
引っ張ったなー…12話のヒューズからだからなー…。
ブラウザでお戻り下さい。