俺の背中に腕を回していたのはほんの数秒だけだった。
俺と自分との間に手を入れて、弱々しく俺を押して。
俯いたままごめん、と言って遠ざかって行った。
月凪 7
暫く何処を見るわけでもなく突っ立っていたハボックに、近付く足音が二つ。
足音の方を向くと、ホークアイと先程とは違う医師が隣に居た。
「どうしたの?エドワード君は?」
ホークアイが心配そうに聞くが、どう答えていいのか正直分からない。
ただ言えることは。
「…やっぱ、辛かったみたいです…」
と、苦笑しながら言った。
それで悟ったのか、中尉も困ったように。
「…そう…」
と一言言っただけだった。
エドのことも勿論心配だが軍人という立場上、上司の容態が先決になる。
「…とりあえず、今は一緒に話を聞いて頂戴」
「今日が何月何日か分かりますか?」
「九月四日…いや、一日眠っていたのだから五日か」
「ご自分の誕生日は…」
今に関すること、ロイ自身に関することについての質問をいくつか受けるが、どれについてもすらすらと答えるし、間違ってもいない。
傍から見ればどう見ても以上などないように見えるだろう。
しかし確かにさっき、エドに向かって誰だと言ったのだ。
ホークアイに困惑の表情が過ぎる。
と、医師の質問は終わったらしく目で合図をされ、口を開く。
「…では、鎧を着た人に覚えは?」
急に質問者が変わったことに少し驚いた様子だったが、直ぐ真顔に戻り。
「…いや、知らないな」
アルのことも覚えていないのか。
となるとやはり。
「…最後に…先程居た少年に、見覚えはありますか?」
「知らないと言っているだろう?」
その言葉に、エドのことも知っている医師が驚いていた。
これで確定、だろう。
出来れば信じたくなかったことに、ホークアイは目を伏せた。
部屋の壁に寄りかかって聞いていたハボックも、悔しそうな表情を隠せない。
正直医師は質問をしている間、別に主だった記憶喪失の症状がなく、中尉の勘違いなのではと思っていたが、ようやく現状を理解した。
「…そうですか。ありがとうございました。今日はもうお休み下さい」
ロイに向かって言うと、二人と共に部屋を後にした。
「…特定の人を忘れる、ということもあるのですか?」
部屋を出た途端、ホークアイは医師が言うより先に口を開いた。
医師は一瞬言葉を詰まらせたが。
「…あります」
ある時期からの記憶を全て忘れる場合、一時だけの記憶が飛ぶ場合、そして特定の人を忘れる場合。
一口に記憶喪失と言っても、人が多種多様にいると同じように、記憶喪失にも多々ある、と。
そして戻るも戻らないも、直ぐに戻ることもあれば一生戻らないこともある。
全ては本人次第だ、と。
「…そう、ですか…ありがとうございました…」
医師は力になれずすみません、と会釈をし仕事に戻っていった。
いざ現実を突きつけられると、本当にどうしていいか分からない。
それはハボックも同じだった。
医師の話をただ聞くことしか出来ない自分。
記憶喪失、という病状が二人に何もさせてくれない。
「…中尉…」
「…辛い、わね…」
でも、エドワード君の方がもっと辛いのよね。
「だから私たちがしっかりしないといけないのよ」
力強い目で、ハボックに言った。
そうだ、俺たちが動かないでどうする。
今までエドに沢山の笑顔をもらった分、今返さないでどうする。
「はい」
ハボックもまた、力強い目で頷いた。
「エドワード君」
「…中尉…」
迷わず屋上に足を向けると、エドは出入り口直ぐ横に背を預けてしゃがんでいた。
まっすぐ前を向いたままの表情は沈んではいなかったが、それでも辛さだけは感じ取れる。
その辛さを少しでも和らげてあげられたら。
しかしそれは自分やハボックだけでは無理なこと。
「―――このままで、いいの?」
何より、本人が動かなければ。
「このまま、大佐に忘れられたままでいいの?」
「…っ、」
何も始まらない。
エドはその言葉に顔を上げて。
「…俺だって、このままじゃ嫌だ…」
でも、どうしたらいいんだよ?
「っ存在自体を忘れられてるのに、俺に何が出来るんだよ…っ!」
辛そうな、顔。
それでも涙を見せない強さ。
(それがあれば、この子は大丈夫…)
ホークアイは柔らかな表情を浮かべ。
「きっかけは私たちが作るわ」
「ぇ…」
「ただ、出来るのはそこまで」
そのきっかけを生かすかは貴方の自由。
でも今以上に辛い思いをするかもしれない。
「もし今以上の辛さに耐えられるのなら、だけど…」
――――貴方なら。
「…俺…」
何もしなければ、俺はこれ以上苦しまなくてもいいのかもしれない。
大佐に忘れられたのなら、俺も忘れればいい。
(でも…)
今までの時間を、忘れられるわけがないんだよ。
大佐から離れられるわけがないんだよ。
それは俺自身が一番よく知っているじゃねーか。
だったら俺が出来ることはただ一つ。
「…俺、」
大佐の傍に居て。
少しでも大佐の力になること。
「……忘れられてても、出来ることはあるよね」
「えぇ、」
はっきりとしたホークアイの声に、エドは力強い金の瞳を向けて。
「…どうすれば、いい?」
先程と同じ台詞だったが、それは明らかに違う心持ちで言われた言葉だった。
――――貴方なら、大丈夫。
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04/08/30
中尉には感謝しております、俺も。
というかどうなんだろう、これ…。
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