もう忘れたはずなのに。


月凪 序章




空は晴れていたのに月は出ていない。
新月の夜だった。
上司に呼ばれ、イーストシティに帰ってきたエルリック兄弟は、何時も泊まっている宿に床を取った。
駅に着いた時点で既に寝るにはいい時間で、エドはそのままベッドへ倒れこんだ。
上司から連絡をもらうまで訪れていた町をしらみつぶしに、自分の足で情報を探していたエドは相当疲れていたはずだった。
だから夢なんて見ないと思っていたのに。










4歳になったエドは病院の屋上に立っていた。
ふと目を下の方へ向ければ、家が所狭しと並んでいて、どうみてもここはリゼンブールではない。
ぼーっとしていた頭はその景色で自分を現実へと引き戻した。


(おとーさん…、)


エドは今イーストシティの病院へと来ていた。
個人経営だが、病院ならリゼンブールにだってあるのに、何故わざわざイーストシティの病院にいるのか。
もし今そう聞かれたら、それは自分が聞きたいよ、と迷わず叫ぶだろう。
そのやりきれない思いを込めてぎゅ、と格子を握った。


(おとーさん…っ)


家族旅行で、エルリック親子はイーストシティに来ていた。
エドの弟が生まれたのが数ヶ月前。
母の体も大分回復し、前々から三人で約束していた、弟が生まれたら4人で旅行に行こう、と言っていたことがようやく叶って、初めての旅行にエドは心躍らせて何日も前から楽しみにしていたのだった。
そう、この旅行はエドの思っていた通り、楽しい、笑顔ばかりの旅行に。
なる筈だったのに。


『エド、そんなに走ったら危ないぞー!』
『へーきっ!』


エドは少し平坦な下り道を楽しそうに駆けていた。
その時父の声に体を反転させて、少しの間後ろ向きに走る形になったせいで。


『ぅわ、ごめんなさ…』


急に横道から前へ、正確にはエドの後ろへ出てきた人にぶつかってしまい、エドはバランスを崩した。
直ぐ体制を立て直そうと試みたが、軸からかなりずれてしまったところに上半身があって、立て直しは間々ならないまま、エドの体は地面に吸い寄せられていく。
更に下り坂というのもあって、何度か回転を繰り返して下り坂を抜けた道路にまで出てしまった。
当然今自分がどうなったのか分からないエドは今の状況を把握できる訳がなく、暫く回った頭を元に戻すのに必死だったため分からなかったのだ。
今自分に大きなトラックが迫っていることなんて。


『エドワード!!』
『え…?』


一瞬の出来事だった。
父が凄い形相で駆け寄ってきて、その勢いのまま俺を突き飛ばした。
そして目の前には凄い勢いでトラックが右から左へ突き抜けて、それと一緒に父の姿も消えてしまった。
その情景に音はなく、ようやくの思いで首を左の方へ回すと、数メートル先にうつ伏せになった父の姿があった。
父は動く様子もなく、ただ赤い液体だけが回りに広がっていき。


『あなた―――!!!!』


母の叫び声だけが鮮明に頭の中に響いていた。





それから直ぐに近くの病院に運ばれ、父は赤いランプの部屋に入っていった。
母は弟をぎゅっと抱きしめて、その部屋の扉へ向かってただ頭を下げるのみ。
今だ何があったのか分からない僕は、どうしたらいいのか分からなかった。
でもこの空気に耐えられなくて、いつの間にか足が勝手に動いていて、気が付いたら屋上に居たんだ。
どれ位、空を見ていただろう。


「…ごめんな、さい…」


あの時、走らなければ。


「ごめんなさい…」


僕が人にぶつからなければ。


「ごめんなさい…っ」


僕が、僕が、僕が。


「ごめんなさい…っ!」


今こんなことを言っても、父に届くわけがないのに。
涙と、その言葉しか出てこない。
エドはずるずるとしゃがみ込むように膝を着いた、途端。


「エドワード!」


後ろから自分を呼ぶ声が聞こえてきて、ゆっくりと振り返ると、そこには嬉しそうな顔をした母がいて。


「こんな所に居たのね!」
「…?」
「お父さんがね、目を覚ましたのよ!」
「!!」


お父さん。
その言葉に無意識に反応して、エドは立ち上がって母の方へ駆け出していた。





「…あなた…!」
「…ここ、は…」
「病院です、覚えていますか?」


父と母の会話を、エドは弟を抱きかかえ一歩引いた所で聞いていた。
本当は直ぐにでも父の傍に行きたかった。
でも怒られるのが怖くて。
痛そうな顔を見るのが怖くて。
だからアルは僕が抱いてるよ、と母に言い、気持ちを抑えていた。
と。


「…アルは、どうした…?」
「あ、アルなら…」


そう言って母は顔をこちらに向けて、近くに来るようにと促す。
行かないわけにも行かず、エドはおずおずと近づいて、寝ている父にも見えるように顔を覗かせた。
エドからも父の顔が見え、痛々しい包帯が嫌でも目に入る。


「…アル…」
「…?」


どうして、という疑問がエドの頭をよぎった。


(どうして、僕のことは呼んでくれないの…?)


「…あなた…?」


母もそれに気付いたようで、父に話し掛けようとした時。
それよりも早く父が。


「…えーと、君は…誰かな…?」
「え…、」










「――――っ!!!!」


びくん、と体が跳ねたと同時に、目があらん限り見開いた。


「っは、は、は…、」


息苦しい。
それで暫く自分が息をしていなかったんだと気付く。


「…ゆ、め…」


言い聞かせるようにそう口に出すと、現実に戻ったんだという実感を得ることが出来るような気がして、少し心が落ち着いた。
エドはゆっくりと上半身を起こして、その時背中を伝った汗で、凄い汗をかいていたことを知った。


「何、で…」


言いながら窓の外を見上げた。
月はやっぱり出ていない。


「…新月の、所為…か…?」


そうであって欲しい。
そうじゃなかったら、今更『あの日』の夢なんてみるはずがないんだ。
あんな小さい頃の、『あいつ』の夢なんて。


「…何で…」


耳を疑いたかったあの時のあいつの言葉。
それでもあいつの声は脳髄まで響いて、俺の視界は真っ暗になった。


『あの日』以降、アイツは何かに取り憑かれたように、元々好きだった錬金術に更にのめり込むようになって。
写真を全て燃やした今、覚えているのは出て行った時の背中だけ。
もう、仲が良かった頃のことなんて、覚えていない。
だが何故か。
何故か『あいつ』に誰だと言われた時の痛みだけは、怖いくらい体が覚えているんだ。


「何で、今…」


とうに記憶から消し去った筈の『あの日』のことを、夢にみたんだろう。



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04/08/10
色々my設定すいません。
1個下の弟が4つ下になってますが、特に気にせずお願いします。


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