掴まれた手首が痛かった。
でもそれ以上に俺を見下す、何処となく辛そうな視線が。
痛かった。



君の街まで 10





「…な、に…」


やっとの思いで出た言葉。
それは平静を装っていても明らかな動揺を示していた。
顔もきっと強張っている。


「………」


気付いていると思う。
でもコイツはただ俺を見下すだけで、口を開こうとはしない。
視線だけが、痛々しく俺に突き刺さる。
その時間が異様に長く感じられて。
だからって、何を言って良いか分からない。


「…っ」


どうしようもなくなった俺は、ばっと顔を背けた。
押し倒された、というのは分かる。
頭に血が上っていたとはいえ、我を忘れるほどではない。
じゃあ恥ずかしいかと聞かれたら、答えは違う。
ただ何か。
怖い。


「………」




怖がっている、とは気付いた。
それはそうだ、手首を掴まれて押し倒されているんだから。
これに恐怖を感じないようなら、何処かおかしい。
照れられても、それでは私に恋愛感情を持っていると勘違いをしてしまうから、有り難い反応ではあるが。
純粋な恐怖。
それが私にとって、唯一の救いであることなんて気付きもしないだろう。
どうかそのまま怖がっていてくれ。
でなければ。
自分を止められる、自信がない。
だが。


「―――っ、」


だがこの子は、してはいけないことをしてしまった。
無意識にだとは思う。
多分、ただ私の視線から逃れたかっただけだとは思うが。
顔を背けて、露になった白い首筋。
服のサイズが違うから当然といえば当然だが、大人には普通サイズのトレーナーも子供が着れば大きいものとなり、頭を通す部分にも大きな隙間が生じてしまって。
丁度生身の腕側が、目の前に無防備に曝されて。


(このままでは…っ!)


湧き上がる欲望。
それを必死に押さえるように、とにかく何処でもいいから、と視線を逸らした。
それに気付いたのか。


「…どけよ…」


変わらず視線を逸らしたまま、エドが言った。
声は、震えていたが。


「何の真似か、知らねェけどなっ」


嫌がらせにも、程があんだろ。


「……嫌、がらせ…?」


今そう言ったか?
これが、嫌がらせと?
心の中で何度もエドの言葉を反響させる。


「他に、何があんだよ…!」


俺は首を元に戻して、ロイに向き直った。
大佐も俺に向き直った。
そして視線を交わして見たロイの目は、先程と雰囲気が全く違っていて。
勿論怖かった。
でも、何かが違ってた。
さっきのはまだ俺に猶予がある感じだったけど、今は。
有無を言わせない、威圧感がある。


「……分かっていないな、君は…」


思えば。
エドが言ったのは、ある種の禁句だった。
恋愛経験が皆無なのだから、鈍いのは分かる。
分かるが。


「……男が、女を押し倒してすることは…」


言いながら、私は頭を下げて。


「一つしか、ないんだよ」


向かって右の首筋に、吸い付いた。


「…っっ!!」


人の体というのは、突然の出来事に敏感に反応するようになっている。
組み敷いた体は吸い付くと同時に、びくりと大きく跳ねた。


「嫌だ!止めろっ!」


それをきっかけに暴れ始める腕と足。
鍛えられているとはいえ、男の力に適うものじゃない。
手首は捕まれたまま。
足はただ空回るだけ。


「…っやめ…!」


何も、出来ない。
エドは殺されるとは違う恐怖を、今日初めて味わった。
襲われるという、恐怖を。


「…離せっつってんだよ…っ!」


時々首筋に走る、ちりっとした痛み。
何をされているのか、黒い頭が邪魔をして見えない。
怖い。
嫌だ。
けど。


「…離、せ…っ」


恐怖とは違う何かが。
小さく小さく、湧き上がってくる気がして。
それは感じたことのない感覚で、また怖くて。


「…っ、」


でも何故か、自然と強張っている肩から力が抜けていく。
何故か、腕の力も抜けていく。


「――――エドワード…」


それを見越してか、ロイがちゅ、という音を立てて顔を離し。
一端離した顔を、今度はエドの顔に重ねるようにして落としてこようとした、瞬間。


ピーピーピー、と高い音が部屋の中を走って。


「「っ!」」


二人は同時に体を揺らして音に反応し、出所を見て。


「……あぁ、洗濯が終わったのか…」


とロイが呟いた時。
手首を掴む手から力が抜けていたのを、エドは見逃さず。


「離せ…よっ!」


機械鎧の左足をロイの腹の下に滑り込ませ、曲げていた膝を力を入れて思いきり伸ばして。


「つっ!」


ロイを吹っ飛ばした。
幸いロイは後ろにあったソファに埋まって床に転がることはなかったが、体に衝撃がないわけではない。
その所為で、エドが起き上がって出て行くのに反応が遅れて。


「っエド!」


叫んでも、エドが振り返ることはなく。
バタン、と扉の音が返ってきただけだった。











「…助かった…」


息を吐いて、力を抜いた。
洗濯機が止まると知らせる音が、今日ほど役に立ったことはない。
あのまま、音が鳴らなければ確実に。
キスを、していた。
おそらく、あの勢い任せに。
そんな風に、唇を奪っても、満たされなんてしないのに。


「大人の余裕なんて形無しだ…」


その形無しな結果を、首筋に残してしまった。
何故止められなかったか。
それは予想以上に魅惑的だった、表情と、白い肌。
そこに風呂上がりのいい香りと、濡れた髪を追加されたら、耐えるなんて言葉は出てきてはくれない。
あそこで止められたのは奇跡的とも言える。
白い肌にきつめに付けた跡は、三日やそこらでは消えないだろう。
あの跡がある間君は私のものだ、と喜べたらいいのに、今の複雑な心情ではそうもいかない。
その心情に重なって、蹴られた腹が少し痛んだ。


「…容赦、ないな…」


ロイはソファに体を預け、腹を押さえて呟いた。
咄嗟のことなのに、機械鎧の足を選んだのには敬服する。


「…いっそ…」


跡が残ればいい、と思うのは可笑しいだろうか。
初めて君が、自分の体に与えてくれたものだと思うのは馬鹿な思考だろうか。
いや、初めて与えられたのは、今日じゃない。
あの時。
私が、君と初めて会った時。
純粋なものと、汚いものをもらった。
純粋な、心を欲しいと思う感情と。
汚い、独占したいと思う感情を。
どちらも君に貰った大切なものだが。
だが今日は、その汚い感情がなければどんなにいいと思ったことか。
男はそんなものだと言い切れればどんなにいいか。
だが私は。


「あんな行為だけを、望んでなんかいないんだ…」


体も勿論欲しい。
そりゃあ欲しいさ。
だが、それだけじゃない。


「君の心が…欲しいのに…」


好きだ、と。
言えたらよかったと後悔しても、時間は戻らない。
今日傷つけてしまったことも取り消すことはできない。
天井を仰いで、ロイは手の甲を額に乗せた。


「……エドワード…」


もう一度。
次にあった時には、もう一度きちんと話をさせて欲しい。
その機会を、与えて欲しい。


「…きっとそう願うのは、今日を乗り越えたいからだろうが…な…」


自嘲気味についたため息は、音にならなかった。














エドはロイの家を出て、全速力でアルの待つ宿に走った。
ノックもせずにドアを開けて、部屋に倒れこんだ。
倒れこむと、その音に気付いて奥からアルが出てきて。


「え、え?兄さん!?」
「っはぁ、はぁ、はぁ…」


ロイの家からこの宿までは走れない距離ではなかったが、それでも全力疾走というのは普通はしない。
息が切れるのは当たり前だ。


「どうしたんだよ?」
「っ何でも、ねぇっ!」


アルはエドの肩に手をかけて問うが、その手はすぐに振り払われて。


「…悪い、」


エドは謝りつつよろりと立ち上がると、アルの方を見ないまま洗面所へと消えた。


「兄さん…」





「…っ…」


洗面台に手を付いて、鏡を見た。
髪はボサボサで、額には大粒の汗を掻いていた。
すげェ顔、と苦笑いをした。
と。


「っ!」


首筋に、見つけてしまった。
さっき付けたであろう、赤い跡を。
しかもそれは一つではなく、二つ。


「…っそぉ…!」


ガン!と右手で鏡を殴れば、鏡にヒビが入る。
だが、跡は消えてなんてくれない。


「何で…っ」


左手で、跡のある部分をぎゅ、と掴んだ。
刻み付けられた跡。
まるで、アイツが何かを主張するような、そんな。


「何で…!」


何で、あんなことを。


「…んで、だよ…っ!」


俺が嫌がらせと言った後の表情が、目が、頭から離れない。
何で、という疑問も離れない。
そして、首筋に残る跡が熱を持っているような感覚も。
離れなかった。





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05/02/20
ね、期待してはいけないんですよ…。


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